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Lastraとはムーの石版

Q: MARTHさんにお尋ねします…。
MARTHさんがリゾートをプロデュースされていると聞きました…。MARTHさんはリゾートの専門家でいらしたことを知っていますが、Lastra Muという名前はどこから来たのでしょうか?

MARTH:Lastra Muの「ラストラ」とはイタリア語で石版のことです…。おそらくその意味は、モーゼの十戒の石版と同じルーツを持っているのかもしれません…。ですから、「ラス・トーラー」というところから来ているのではないかなとも想っています…。そこに、「ムー」をつけました…。そうなると、「ムーの石版」となり、「ムーの石版」と言えば、「ムーの聖なる霊感の書」ナーカル石版のことと言えます…。
そこには、色即是空と同じように、未知、神秘、この世でない、そしてすべては一体物の一者であるゆえに、すべては愛の現れであると記(しる)されていたと言われ、これは日本の武士が「一元に帰す」とよく言ったことと同じです…。ですからこれは武士道ということにもつながるのですが、「一元に帰す」というのはすべてが一体のひとつなるところに帰る、要は争いや分離は夢のまた夢に過ぎず、本当の真実はひとつなる愛であるということなのです…。真の現実に戻る、本当の現実である未知の中、神秘の中、ひとつなる愛の中へ帰ることほど、大切なものはないとつくづく感じるのです…。精神世界では無我とか真我とか、ワンネスとか呼び、ニューエイジの方々はそれをよく「リアリティー」という言葉でも呼びますが、真の現実は未知で神秘でこの世でない、すべてが一体の愛の中であるということを強く表します…。そして、一者であるという、その意味は、瞑想し、真我に帰っていったときに、または死というものに参入してゆくとき、真の現実である一者に戻ってゆく、ひとつに帰ってゆくというところから、そのように言われてきたのです…。深い瞑想に入ると、美しき光の中へ…もっと言えば、喜びに満ちたあたたかな、非常に明るい、とても輝いたところに入ってゆき、とてつもない至福に包まれます…。これを言葉で表すと、性的なオルガスムの何万倍にも想えるほどの素晴らしい感覚のところへ入ってゆきます…。そしてそこでは、自分という感覚はちゃんと存在するのに、自分が誰かとか、いつとか、人間とか、という思考が一切なくなるのです…。その感覚というのは、イッているときの感覚を凄まじく強くしたようなものですから、当然思考(左脳)的ことは考えようともせず、そこでは自分が誰か、今がいつかすら思考することはないのです。しかし、ちゃんとその空間を体験している自分はいるわけです…。すごい喜びと至福の中にいるわけですが、誰か、いつか、という左脳が一切動きません。そして、横に誰かがいるとか、他の仲間がいるとか、神様がいるとか、自と他という分離感もないのです。そして、それそのものが真我と呼ばれているのです…。


真我のそれそのものの中に在るという体験をしますと、つくづく一者であると感じ、要は自分こそが真我そのものであるという感覚が起きます…。だから、世の中には「我こそ神なり」のようなちょっと自我的な変なことを言う方が現れたりするのでしょう…。
そうではなくて、そこに帰ると、あらゆる人がリアリティーに、一体に、未知や神秘、真我に帰った場合は、みなが同じそのひとりになるのではないでしょうか。誰もが、あらゆるものが…。そして、それが神と呼ばれ、またはなんと呼んでも良いのですが、その真我が神であるとしても、その真我の中に万物のすべてが存在し、その真我の中に、動物たちも、花々も、木々も大地も星々も、すべてがあり、そしてそれこそが自分であるという体験をします…。ですから、「我こそが万物のすべて。神そのものだ」というような体験をしてしまうために、精神世界の方で誤ってしまう方が出てしまうのでしょう…。実際は、あらゆる生命が、あらゆる人々が、みなその深い本質への帰還を果たし、ハイヤーセルフ(真の自己)に戻ったときには、それそのものに帰るのだと想います。ですから、その体験をしたときには、自分は真我であった、真我そのものは自分であった、しかし、誰でもそこに帰ったら、そこに帰るでしょう…。ですから、そこで自分だと想っていた自分は、みなにとっても自分なのです。そこから、この宇宙全ては生まれていると捉えられることができると感じます。
私は、その話を古事記やそういったものの専門家のねずさん(小名木善行さん)と話し合ったことがあります…。
ねずさんは、そのことが古事記にも書いてあったと教えてくれました。
私は古事記を読んだことがないので知らなかったのですが、ねずさんは、そのように、古事記にも書いてあるよと伝えてくれました。この世界のすべてのものは、アメノミナカヌシの中にあるのだと書いてあるそうです。そして古事記というと、イザイヤー・ナギィードのイザヤさんのことだと想いましたから、私は嬉しくなりました…。
そして誰もが本当は、その一体である、未知である、神秘である何かそのものであり、浄化され、真の自己に戻ったすべての人は、美しい神々であり、とわに真我の中にある、ということであり、とても美しく素晴らしいことと感じてなりません。そのことに気づくことは、人類にとって何より大切な気づきになると想います…。それは古代のヴェーダにも、また、あらゆる宗教の元にもなっていることかもしれません。それは古代には存在した人類の愛ある叡智であると感じるのです…。

それゆえに、古代の科学というのは、その真我から生まれでているのでしょう…。ですから、当然、現在の左脳による分離をベースとした科学とは違うのです。それは、すべてが創造の主体の夢であり、真の現実ではないということをベースにした科学であり、現実であるということをベースとした科学とは一線を画すのです…。真逆な場合も多いことでしょう…。古代の科学、現在はムーと呼ばれている文明の科学、また、古代のとてつもなく優秀な科学力は、みな、非現実の真実に基づいた右脳から生まれたものであり、それは未知や神秘、この世は現実でない、ということをベースに生まれるゆえに、自然とプラズマともなり、自然とシダー(この世界を現実であると信じた見方からはサイキック的に見える)となるのです…。

ですから、その現実ではないというところをルーツとした科学、サイキック的科学、要は原子、素粒子、エーテルなどと名付けられた科学、シディ的科学を学んできた、ニューエイジまた精神世界の科学者たちと、左脳と呼ぶのか、現実だと信じた、要はこの世界は未知で神秘で、この世でないとする価値観のものではない科学とでは、おのずと違いが出るのはやむないことなのです…。
現実というものを信じたことをベースに生まれた科学と、非現実こそリアリティーであると気づいたソクラテスやプラトンの編みだす科学では相容れないのは当然なのですが、テレビなどでそのような人たちが戦い合っているものがあったりもします。どちらもそれはそこに気づきがないなら争い合うこととなってしまうでしょう…。

しかし、これからの時代は、その真のリアリティーの時代となり、すべては未知や神秘の中で、この世でないことが真実であることにすべての人が気づき、そこから科学者たちも目覚める時代であり、科学も通常の科学を遥かに超えたプラズマ的、シディ的な科学となり、要は通常の科学を遥かに超えた、神秘の中、未知の中、非現実の中での起こること、というものがベースとなった、夢のような、古代にあった素晴らしい量子的科学になってゆくことでしょう。
もし、そうならなければ、おそらく人類は分離のために滅びてしまうことでしょう…。


MARTH