新たなる癒しの未来へ…

一体性への帰還と
真の目覚めについて・・・

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万物が
自然界が
望むこととは・・・

Q:MARTHさんは、藤森先生と同じように、今から2680年前にイザイヤーナギィードさんが日本にやってきて、この国を建国しそしてイザナギになったというようなことをおっしゃられていると想います…。
そのように、藤森先生がお話しされているようなこととの共通点を強く感じるのですが、それは神代との関係が深いからなのでしょうか。とても興味があります。

MARTH:古代の歴史のことについて、私はとやかく言う気はないのです…
大切なのは和する心、一体である、未知である、神秘である、この世でない、現実でない、この世界はとわにわからぬままの、わけれぬままのもので、それらはなにか創造の主のようなものの一人の夢である…そのように量子力学的には若い頃から感じてきたということをお伝えしただけなのです…。この世界の真実は、そのような未知で神秘で、この世でない、現実でない、そして一体である、愛である、すべてはその愛(一体)の現れである、分離を超えて愛で生きる時、電子は美しく回り、森は喜ぶ。逆に、分離を信じ、生きるなら、自然はおびえ、電子は乱れる…。それが私たちへのメッセージとなる…。そのように今でも感じています…。
そして、もしそのことを学べないできた人類であるとしたら、わかたりのない世界であることが当たり前でない今の文明や
社会は非常に苦しむのではないかと心配しているだけなのです…。
そして建国の父であるその人は、そのようなことに気づいていたからこそ、この東の地へ来たのではないかと感じてなりません…。
そして、そのような仏教とかキリスト教とか、ユダヤ教、イスラム教と呼ばれるものまた、宗教性のすべての真髄はすべてそこにあると感じています…。
そしてあらゆる宗教のもとは、その一体で未知で神秘で愛であるということなのではないかとも感じてなりません…。

そしてそれが、もしかしたら日本の超古代文明から引き継がれたものである可能性も否定できないと感じています…。
それは一万年以上前の、この今は日本の地と呼ばれる東の果てにもとから、もっともっと昔、当然違う名前で呼ばれていたであろうその文明の価値観が、その石版に記されていることが、その一体への気づき、和することであると私は感じています…
それゆえに、分離感からくる競争や争いや戦いは、本当は無意味なものなのではないかとずっと感じてきたのです…。

すべては一体である…。すべては創造の主体であるものの夢である…。あらゆるものは愛であり、それそのものである…しかし、そう生きない時には、真の自己からの強きメッセージが誰にでもきて、一体性を取り戻そうとする素粒子と呼ぶ神秘の未知が働いていると感じるのです…。すべては愛の現れである…そして、未知で神秘である…とわにわからぬところである…その科学的真実こそが、人々の幸せにつながると私は感じているのです…。

そして、もうひとつ、あらゆる人達が一体で、本当はこの分離を基軸としたこの文明社会では、残念ながら人々が苦しむことでしょう…。善で生きたい、愛で生きたい、勇気を持ちたい、純粋に生きたいと想っても、分離からくる恐れでそう生きれないという悲しみ、苦しみが民を襲います…。
そして、そのことを天が悔やむときに、美しきイザイヤーナギィードや、イエスやエリヤや、モーゼや、ありとあらゆる美しき人々がそれを伝えてきたのではないかなと、そう感じるのです…。
正しいか、正しくないかということではないのですが…ある意味、天は、いや、創造の主は、人類に五感を与え、そして言葉を与えたことで分離の傾向になってしまったのであるなら、本当は善なる民の愛で生きれぬ苦しみをあわれみ、また、悔やんでいるのではないかとすら感じ、ゆえに自らのひとり子も犠牲にしてでも、民を救おうとしているのではないかとまで、感じてしまうこともあるのです…。

ですから、私たちが今、天が望む、または神がなによりも望むことは、または万物が真に望む、自然界が本当に望むことは、すべてが一体であることへの気づきなのではないのか、すべてが同じものであり、万物すべてが愛の表れであるということにつくづく気づくことではないのかと、私は常々、感じてきてしまったのです…。
ただ、それを伝えただけにすぎません…。そこから歌を創り、そこから詩を創り、そこから文章を書いているだけにすぎないのです…。イザヤさんの悲しみを感じながら…。
MARTH